先験論者ヘンリー・デビッド・ソリュはCivil Disobedienceというエッセイの中で、「もし植物が本来の本質通りに生きられないのであれば、死を迎える。それは、人間も同じことだ。」と言っています。
ソリュはカナビスに限定せず、全ての市民が本質に従い生き、不法であっても不当なものには抵抗するべきだ、というような広い意味で表現しています。これは、カナビス解放運動に大きな影響を与えていました。事実、1世紀以上に渡ってカナビス解放運動は国際的に不服従運動として多くの人々が参加してきました。そしてこの争いは、未だに終わらぬものなのです。
たった今このアメリカのどこかで、カナビスが理由で不当に逮捕されて人生を妨害されている人がいるでしょう。これは合法化するまで止むことはありません。一方、興味深い話は、権威ある者たちが、権力を握り何の同情もなく、カナビスに対する争いを行っているのです。それに対して、抵抗運動は彼らを撃退するために力強く、創造性があり、そして断固としたものです。
では、カナビスが理由で逮捕された13人の話を紹介致します。
アメリカで最も有名で革新的なジャズシンガーであったルイス・アームストロングは、カナビス喫煙者でした。事実、彼はカナビスのことをGage、つまり「アシスタントであり友」と呼びました。
アームストロングと彼の仲間たちは、カナビスは創造力とセンスを磨くものとして、1日に2本喫煙し、コンサートの前、リハーサル時、作曲時などに特に好んで使用していました。
1930年のある夜、アームストロングは、ドラマーのビック・バートンとカルバー市にあるコットンクラブの外で、カナビスを吸ってハイになっていたところ、不運な出来事があったことを、自身の自伝に記しています。「ビックと俺は、カナビスをものすごく楽しんでいたんだ。お互いよく笑って、すごくいい気分だった。そこに丁度警察2人が後ろからノコノコとやってきて、吸いさしは没収するぞ、と言ったんだ。」
アメリカ政府のカナビス禁止令はまだ7年後の1920年からですが、カリフォルニアでは1913年からカナビスが禁止されています。驚くことに、ライバルのバンドリーダーが警察に情報提供し、アームストロングは刑務所に入所することなったのです。彼は9日間刑務所で過ごしましたが、カナビスは単に合法されるだけではなく、多くのジャズシンガーを破滅に入れたアルコールに代わるものとして、もっと公に祝福されるものである、と確信していました。
世界で最も人気のあるエンターテイナーの一人として、アームストロングの言葉はとても重要なものでした。警察はずっと彼を狙ってきましたが、結局1954年の新年の日に眼鏡ケースに吸い殻が見つかったとして、彼の妻を逮捕しました。彼はそれに対して彼のマネージャーに手紙を送りました。「俺には好きなカナビスを好きな時に吸っても良いという特別な許可がある。さもなければ俺は全てを辞める。」
政府によるカナビス禁止法で最初に逮捕されたと思われたアメリカ人は、実は間違っていたという話です。2016年の報道によると、無職のサミュエ・アール・カルウェルではなく、彼が逮捕された2日前の1937年10月3日、23歳のメキシカンアメリカンである、モぜス・バカが1/4オンスのカナビス所持のところを発見されました。カナビス禁止法の連邦捜査局理事であるハリー・ジェイ・アンスリンガー氏は、捕えられた2人に会うためデンバーまで電車で駆け付けました。裁判により重刑を言い渡された後、彼は「モルヒネやコカインの使用よりも悪いことだ。この法令をさらに厳格なものにする。」と政府に約束し、周りの検察官たちからはあふれんばかりの称賛を受けたのです。
さらに彼はデンバーポストに、「刑を受けた者たちは、国全土の弁護士たちに道を示しました。その販売と使用が最低でも25の州で見られる今、カナビスは、私たちの最も大きな問題となりました。」と語りました。そしてその記者は、言います。「ハリーさん、残念ですが、現実には、カナビスはその2倍の数の州へと広がっています。」
世界恐慌時に、いずれ映画の人気俳優となるロバート・ミッチャムは多くの若い失業者たちのように、鉄道で渡り労働者として暮らしていました。そうしているうちに、カナビスの味を覚えるようになり、つまらなさと、決して快適ではない終わりのない貨車での生活を鎮めていました。
彼がハリウッドへ引っ越した際も、カナビスを吸い続けましたが、1948年8月31日にそんな良い日々に終わりが来ました。それは、ローレルキャニオンで友人と若い女優たちとカナビスを喫煙しているときでした。警察が後ろのドアから入ってきて、逮捕されたのです。カナビスの所持について彼は、無罪を主張しましたが2年間の執行猶予付きで2か月拘置所で過ごしました。
スキャンダルはメディアによりセンセーションに扱われました。彼が契約を結んでいたRKOスタジオの社長ハワード・ハグスの助けにより、出所後、事件により悪役の俳優として輝かせることに成功し、さらに映画館には長蛇の列を呼んだのです。
サイケデリック提唱者として最も知られている、ティモシー・リアリーは、ハーバード大学で教授をする中、若者に対して「同調し、興奮を覚え、そして脱落しろ」と教えていました。学長のニクソンは、彼を「アメリカで一番危険な男だ」と呼びました。
自ら調達した数々のドラッグ、LSDからマジックマッシュルームまでを試しハイになっていましたが、1965年12月22日まで逮捕されることはありませんでした。家族との休暇でメキシコとの国境を車で越える際、4オンスのカナビスが税関に見つかったのです。彼は連邦政府の下では所持可能な量と主張しましたが、結局マリファナ税法により有罪とされました。
彼は最終的に最高裁判所まで争うことになりました。結果は、リアリーの意見に満場一致でマリファナ税法は違憲ということでした。議会はすぐにマリファナ禁止法関係の書類を物質管理法に置き換え、これは現在の連邦カナビス禁止法令の土台となりました。
そしてそのすぐ後に、2本のジョイントが原因でリアリーは再度逮捕されることになりましたが、彼は誰かの罠によるものだと言いました。今回は20年の有罪となりましたが、ウェザーアンダーグランドの組織の助けによって、1年以内に出所しました。
1969年、詩人、政治扇動者、そしてデトロイトロックバンドMC5のマネージャーであった、ジョン・シンクラ―は、彼の政治的信条を理由に秘密裏に動いていた警察により逮捕されました。2人の警察官は何か月も張り込みを続け、ある時彼が2本のジョイントを渡したところを現行犯逮捕し、10年の禁固刑としました。
ジョン・レノンはこの不当さを作曲し、1971年12月にミシガン州のアンアーバーにてビートルズはジョン・シンクラ―のフリーダムラリーとして彼を解放するよう抗議のコンサートを行いました。その3日後(2日間入所後)にシンクラ―は出所したのです。「残酷で、あり得ない罰」と言及され、結果的にミシガン最高裁判所は、カナビスに関する法令を厳しくし過ぎたのでした。
翌年の4月には、アンアーバーのミシガン大学でハッシュバッシュというイベントが始まりました。それは、シンクラ―の解放を祝福するものと禁止令に対しての抗議を目的とするものでした。結局、いつまでも続く抗議と政治的圧力により、アンアーバーはカナビスの所持に対する罰金を5ドルまで下げることに成功しました。
ロバート・プラッツホンとオペレーションバンコから逃げていた、彼の「ブラックツナギャング」に対するケースは、新編成DEAの初めての密輸入に対する調査の対象でありました。
1970年代後半、オペレーションバンコは、南フロリダで麻薬貿易に関わる多くの税務者を詮索するようになりましたが、大きな魚はいつも逃していました。オペレーションバンコがかなりの大物を逃した際は、IRSとアメリカ税関局が遂に自ら調査に乗り込みました。今回はさらに厳しく調査をする必要があったのは、誰の目にも明らかでした。
1978年、アメリカの弁護士グリフィン・ベルが全土に向けた記者会見で逮捕者を発表した際、ブラックツナギャングをアメリカで史上最大で最も巧妙なカナビス密輸入グループと呼びました。検事は、RICO法令を参照し、プラッツホンを一生捕えるためにも、64年の刑を要求しました。プラッツホンは結局30年間入所し、カナビス関連の囚人としては最も長く刑に服した者となりました。
2008年に自由の身となったプラッツホンは、ブラックツナダイアリーとして自伝を出版し、家のある南フロリダ近くでリタイアメントコミュニティとしてシルバーツアー社を立ち上げ、医療向けカナビスに関して情報提供するセミナーを開催しています。シルバーツアーは完全に活動組織として成長し、2016年にフロリダで医療向けカナビス合法化の法案を通過させるのに大変大きな役割を果たしました。プラッツホンは現在でも現役で、お年寄りに対して政治的要因で医療向けカナビスを支援するだけではなく、彼ら自身が試すことを促進しています。
1970年代、マリー・ジェーン・ラスバンはIHOPのウェイトレスとして働いてた傍ら、生活費の足しとするため魔法のように美味しいカナビス入りのブラウニーを売り始めました。すると瞬く間に売れ行きは上がり調子となり、1日に何十個もブラウニーを作るようになりました。ゲイが多いサンフランシスコのカストロで、パーマをかけた白髪混じりのおばあちゃんが作るようなブラウニーの味と彼女の人懐っこい人柄で街の人気者となりました。エイズ危機が起こる前にも、ゲイを受け入れる社会を探して家族と別れて生活する数多くの若者に、彼女はお母さんのような存在として支持されていました。
1980年代前半エイズ危機が起こった際、ラスバンは2つのことに気付きました。若いゲイたちの間で蔓延していたエイズの症状に対して、カナビスは症状を和らげ、そして食欲を増すことができると。彼女は看護師のアシスタントを始め、患者にカナビス入りブラウニーを無料で配ったのです。
1981年遂にサンフランシスコ警察が彼女のアパートへやって来て、18ポンドのカナビスとともに彼女を取り押さえました。医療用カナビスのフィレンツェのナイチンゲールと呼ばれた57歳のラスバンは裁判にかけられることになり、その後も2回逮捕されるのですが、ブラウニー作りを止めることはありませんでした。1986年、サンフランシスコ総合病院はその年のイヤーオブボランティアにラスバンを選出しました。また、友人でありカナビス活動家でもあったデニス・ペロンとともに、街の医療用カナビスに係る条例を1991年に通過させました。そして1996年、カリフォルニア州の法令215項にあたる初めての医療用カナビスに係る法令の通過に繋がっていったのでした。
1970年代、バレリー・コラルは重い病を患っていましたが、カナビスはこの病に対する薬の副作用を大きく減少させれることを夫のマイクとともに発見しました。彼らは1992年にカナビスの栽培で逮捕されるのですが、医療的に必要であることを訴えた結果、勝ち目のないことを悟った検察側は訴えを退きました。2度目の逮捕がありましたが、合法的に釈放された後、彼らは病に苦しむ人たちのために医療用カナビスの入手を援助する団体を設立しました。
地域の当局からも支援を得たその団体WAMMは、カリフォルニア州法215項を通過させるのに大変大きな役割を果たしました。その後も、カナビスを必要な者に提供する善行の団体として他の団体の例となっていったのです。
2002年、麻薬取締局がWAMMに入り込み、また夫婦を連邦法の違反として逮捕しました。2週間後、サンタクルスの市長とWAMMは、メディアの前で麻薬取締局に逮捕されるのを目的として市役所の前で病に苦しむ者たちに医療用カナビスを配りました。しかし麻薬取締局は現れず、カナビスに関して取り押さえや逮捕が横行している中、医療用カナビスのムーブメントに勝利し、WAMMは司法省を訴えることに成功したのです。
ちょっとおもしろい話で休憩しましょう。1999年の夜中、俳優マシュー・マッケンジーはカナビスを吸いながら裸でボンゴを叩いていたところを逮捕されたのです。彼は9時間拘置所に入りましたが1000ドルを支払い釈放され、また告発も免れました。プレイボーイのインタビューで、彼はこう言っています。「誕生日にドラムを叩いて何が悪いんだ?こうなったことは何も後悔していない」
連邦政府が2003年にパイプドリームオペレーションという麻薬類使用時の備品販売を取り締まる条例を出した際に、55人が告発されました。そのうち1人だけ刑務所に入所したのですが、それがトミー・チョンでした。
1970年代に権威を馬鹿にしたかのように、備品を販売し何百万ドルも稼ぎこんでいたチョンが捕まったのは偶然のことではありません。彼の会社が国中で訴追されたことは、連邦政府の訴追者たちがこれまで望んでいた復讐の機会でした。
チョンの裁判と9か月の監禁は、麻薬賛成者が思った通りではありませんが、ある意味PRとなっていました。その代わり、ほとんどのアメリカ人はなぜパイプを売っていたコメディアンを刑務所に入れるために税金を支払う必要があるか疑問でした。
この件に関しては、ここで話すには長すぎるので、他の記事にしています。記事名:2000年代前半、エディ・ラップの農園は32、524個ものカナビスの植物を栽培。
ハイディは法務行官の使者に言います。「拳銃を持った狂った人が来て、私たちの物を汚していっている。」
2010年、ショーナ・バンダはマッサージセラピストとしてカンザス州ガーデンシティの健康食品店の近くで働いていました。彼女はカナビスがクローン病の症状を和らげる効果があることを発見し、カナビスオイルを使用するようになり、かなり規制の厳しいカンザス州でカナビス活動家となりました。
2015年、5年生の息子がある時、麻薬教育を学校で受けた際、僕のお母さんはカナビスを薬として使用していて、もう病気ではなくなった、と証言してしまいました。学校の職員は警察に通報し、バンダの家からは1オンスのカナビスオイルが見つかりました。彼女は逮捕され、息子は保護施設に預けられました。
バンダは息子を奪われ、刑務所での大変な生活を過ごす中でも、毎度の告発に屈せずに闘いました。2017年8月、カナビスを生産するために備品を所有しているのではないと言い続けると、部分的に告発は取り下げられ、結局ワシントン州で12か月の保護観察を受ける形となりました。
何百万人もの人がカナビス関係で逮捕されている中、素行の悪い警察によってカナビス使用や使用の疑いをかけられて、正当な逮捕となっていないケースが数多くあるのです。2014年にミゾーリ州ファグソンで、武器を持っていない10代有色人種のマイケル・ブラウンが警察により不当に拳銃で殺され、撃たれた後も4時間道路に放置された事件がありました。この事件は大掛かりな反対運動へと繋がり、国全土で司法システムや警察の不当さに焦点をあて、人種差別とアフリカンアメリカンに対する法の甘さ、そして拡大する腐敗に非難を浴びせました。
メディアがこの事件に注目し始めると、警察当局はブラウンが普段からカナビスを使用しており、また事件当日もラッグの取引があり、しかも彼はカナビスの葉っぱが描かれた靴下を履いていた、という部分的な情報を流したのです。つまりカナビスが理由で、警察はマイケル・ブラウンを撃たなければならなかったのでしょうか?確かにカナビスが一つの理由で警察に恐れを抱かせたかもしれませんが、撃つ必要はなかったでしょう。カナビスに対する闘いは、カナビス自体に対するものではないことを覚えておかなければなりません。それは戦争についてなのです。
出典:Leafly
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